味噌田 楽
別に何か目当ての番組があった訳じゃない。夕飯を食べるときに後ろで流しておく環境音が欲しかっただけだ。電源をつけて目に飛び込んできたのは、とある音楽番組だった。一人の歌手が煌びやかなステージに立ち、マイクを握っていた。知ってる顔、知ってる歌声、なのにまるで知らない人間のようだった。
雷兎「松村先輩…」
もう何年も連絡をとっていない。どこで何をしているのかも知らなかった。でも、どこにいたって歌を歌っているんだろうなとは思っていた。相変わらず上手い。あの頃から技術だけはずば抜けていた。観客を圧倒するパフォーマンス、その姿はまるで
雷兎「アイドル、って柄でもないだろうに」
いったいどのくらい画面を見つめていたのだろう。机の上の上海焼きそばはすっかり冷めていた。皿にラップをかけて冷蔵庫に入れる。食事という気分でもなくなった。上着を羽織って外に出る。新鮮な空気が肺を満たしていった。
プリプロは解散していない。正確には解散の話すら出なかった。各々がやりたいことに向かって走り出し、誰も振り返らなかった、それだけだ。プリプロは当初の目標を達したと言えるだろう。商店街は以前とは比べ物にならない程の賑わいを見せた。あの肉屋も全国コロッケグランプリのなんとか賞だったか何かを、まあそれは別にいい。もう開けることもないだろうと思っていた記憶の引き出しが勝手に開いていく。一足先にけたたましく卒業していった松村先輩を、色んな部活に参加してはすぐに抜けてを繰り返す日野を、学校ではあまり見かけなくなったインターネットスーパースター(ISS)を、俺は何も言わずに傍観していた。或いは傍観すらしていなかったかもしれない。先程から感じていた頭痛が段々と酷くなってきた。足音が二重に響いて聞こえる。
「チリパウダーの原材料にチリ原産の物は一つも使われていないんですよ」
駄目だ、いよいよ意味不明な幻聴が聞こえてきた。おぼつかない足取りで辿り着いたのは近所の河川敷だった。川のせせらぎが、吹き抜ける風が、虫の鳴く声が、不安定な気持ちを落ち着けてくれる。無意識に足元に落ちていた石を手に取る。平たい円形の石。重すぎず軽すぎず、一か所が窪んでいて手に丁度フィットする。
雷兎「良い石だ」
水際に近付き、おもむろに石を構えてみる。知識としては知っている。実際にやるのは初めてだ。リリースの位置はなるべく地面に近く、軌道は水面と平行に。
雷兎「ふぅ、ンッ」
放られた石は穏やかな水面を走っていく。6回、7回、8回、徐々に石の軌道がブレ始めた。手から離れる瞬間に力が入った。回転をかけることを意識しすぎたのかもしれない。最後は細かく跳ねるため正確な回数は分からない。力を失った石は小さな音をたてて水底に沈んでいった。まあ初めてにしては上出来だろうか。
「武田さん似合いますね、水切り」
全くもってそんなことはないと信じたい。一人河原で黄昏れて水切りに興じるなんて、似合うか? いや似合うな、俺。頭の中で響く声に思考を乱される。次の瞬間、水面から大きな水飛沫が上がった。
「これ、意外と難しいですよね」
今度の声は鮮明に聞こえる。声のした方を振り向くと一人の女性が立っていた。